そうだと感じる認知の最小限

ふと、頭の中に携帯電話(ガラケー)の着メロ3和音が浮かんできた。

自分はその頃携帯電話を持っていなかったし、自分が携帯を買った頃には着うたが主流になっていたから実際に3和音は体験したことがないのですが、そういえば高校の先輩の携帯電話にアンパンマンのマーチをポチポチ手打ちで入力していた。

コンビニでもメーカー別に着メロを作る本みたいなのが売っていた記憶があるし、QRコードから絵文字をダウンロードするような本もあった。

今ではその文化を思い出すこともなくなってしまったけれども、普段聞いている音楽をリズムトラックもなしに3和音で認識できてしまうというのは実はすごいことではなかろうか。

メロディーを含めても非常に少ない音でその音楽を表現しなくてはいけない。音色はもちろん違うし、テンポもシビアに指定できなかった、それでも人間はそれがなんの曲か認識できるのである。

世の中に出回る音楽はたくさんの音が重なってそれがよく聞こえるように調整して、手元に届けられる。

そこからどんどん要素を減らして、このフレーズをなくしてしまったらなんだかこの曲じゃないなっていうのを発見したならば、それがその曲の重要な役割をしている部分なのだと思う。それは音色にしてもそうだし、音のコンプレッションなどもそうだろう。

音楽以外でも様々な要素を減らして成立しなくなる部分を探ることって大事なんじゃないかと。

話は変わリますが、

あまり物は買いませんが、アンドロイドは人間になれるか(文集新書)という本を所有している。

これは、世界的ロボット工学者の石黒教授が自身の作ったロボットに書いている本なのですが「人間らしさとは何か」について、ロボットから考察しているのがすごく面白い。

ロボットなのにそこに人間らしさを感じるためには最低限何が存在すればそう認識するのか。

人間らしい姿なのか、声なのか、動作なのか。

本の内容は書きませんが、最小限がわかると、ようやくその上に乗ってくる要素が生きてくるのが理解できると思うのです。


例えばリッチな生活がしたいという欲求があったとして、あなたの思うリッチとは何なのだろうかと考えたときに、金銭的に高い物を揃えるのがリッチだろうか。

他人からチヤホヤされたいというのが感情としてある場合、リッチな生活というのはそれを実現するための一つの要素にしかすぎないわけです。


最小限にたどり着くためには大体の場合は引き算をする必要がある。今の状態がゼロに限りなく近い状況は少ないから。

事柄を曖昧に捉えるのではなく様々なレイヤーの集合体、さらには多面的であるものとして捉える。そうなったときに構成する要素の分割は必要だ。

似ているものと感じるものには共通の要素があり、完全に同じではないと判断するには何らかの差異が存在するということ。



なぜ自分がミニマリストに惹かれるのか。

単純に物が少ないのが心地よいで済ませることではないと思うんです。

少ないことによって、そのレイヤーが理解しやすくなるっていうのが自分にとって好都合なのだと思います。

こういう面白い本に出会ったり、様々な物の見方を学べば、もっと目の前の当たり前が当たり前として存在していることに感動するようになっていくでしょう。

ミニマリストに興味を持ち始めたときは、幸せの水準を下げることだと思っていたのですが、理解を深めることで表面的なことに誤魔化されないことではないかという気がしているんですよね。

思考することは楽しくて楽しくて、まったく飽きません。



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