田舎の日常にフォーカスを当てていく感覚

街の雰囲気は様々な人がそれぞれ別々の行動をして成り立っているもの。それぞれ好きなものが違えば、家庭環境だって異なるだろう。街を歩いている人を見てもそこまではわからない。でも、そんな日常を構成する人という存在が好き。

盛岡へ遊びにいって感じるのは徒歩で通勤する大人の方がすごく多いということ。

これは考えてみれば徒歩圏内に職場があるか、もしくは公共交通機関が発展しているか、まーそのほかも考えられるけどそれだけでたくさんの考察ができる。

盛岡の交通事情を知ったって生活が大きく変わるわけではないのでしょうが、自分が惹かれるものっていうのは宣伝が強くされていないもの、そこに当たり前のように埋もれてしまっているものなのじゃないかと思う。

ごく一部の人に愛されているけど、大多数の人は知らなくて、多分生活の中でそれが日常になる人はそんなに居ないだろうっていうところ も深く惹かれるから好きだし、普通すぎて当たり前になっていることを再度考えなおしてみるのも好き。

必要なものなら残るし、必要ないものなら淘汰される。必要ないの基準は曖昧だけれど一般的に見れば商業ベースで利益が取れないことを意味する。

これも悲しい流れだと思うのですが、世の中の楽しいことは大体がお金に支配されている。楽しいことがあってお金が生まれるという感覚が薄くなって、お金がないと何もできない話になってしまう。

当たり前の日常には様々な魅力があるのに、インパクトのある、1年に1回のイベントが大注目される。1年に1回の1日より、1年に364日になぜ注目しないのかなぁと。

「こんなイベント考えました! みんな来てください!」よりも、「今日も雪がたくさん降りましたね。皆さんお気をつけて」っていう情報発信のほうが惹かれる。自分は素でそういうことがさらっと言える人のところに遊びに行きたくなる。

ガツガツした先にあるものは自分のやっていることを知ってもらいたい欲なのだろうか。それで効果が出るのは喜ばしいことではあるけど、外部的にあんまりそういう部分は見せてほしいとは自分は思わない。

多分誰もが "誰かが" 興味のあることはやっていると思うんです。それがインパクトがある・ないだけで評価され、物事の良し悪しとしてイイネの数として可視化される。コメント数も然り。SNSは良いツールでもあり、相対的に可視化されない部分を埋もれさせる悪いツールでもあると感じる。

だったら、みんなが情報発信すればいいじゃんっていう話にもいくかと思うんだけど語らないこともまた、その魅力ですよね。

当たり前の中にあるその雰囲気の中にちょっとだけお邪魔させてもらうっていう感覚が心地よくて、そういう興味を引き出してくれる人とは繋がっていきたいし、積極的に出会いたいなぁと思う。

知らないだけで転がってると思うんです、田舎の日常に素晴らしいことって。
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