贅沢な生活はお金を使うことではない

Androidスマートフォンスタンドを前に100均で買って使っていたのですが、外出先でタスクを処理するうえで、スタンドの必要性を考えた時にまったく不要なので処分することにしました。

スマートフォンスタンドが必要なときって、動画を見たいときなど、スマホに常にふれない前提なら良いと思うのですが、Bluetoothマウスが使えない環境にいって、Bluetoothキーボードのみを接続してブログを書くとなると、画面のタッチは少なからず必要になってしまうわけです。

スタンドにスマートフォンをたてた状態で、画面をタッチするのは結構角度的に使いにくいと思うことあって、結局スマートフォンとBluetoothキーボードのみ持ち歩くことが増えました。

Bluetoothマウスはあると便利には間違いないのですが、外出先でマウスを使って調べものをするサイクル自体が日常生活で稀であり、行動する前にパソコンで下調べする習慣が身についている自分にとってはあまり必要性を感じるものではありませんでした。

モノを買ってみる、モノを手放してみる、モノの依存から離れてみる。そのような行動から本当に自分にとって必要なことはなんなのかが掴めてきます。

「必要だと思っていたこと」=「常識的に考えて」 これこそが自分の生活をつまらないものにする習慣なのです。


メモをする際にノートがあるから、書くものが必要になります。消す必要がなかったら消しゴムは要りません。線をまっすぐ引く必要がなかったら定規は必要でしょうか。

たくさんの服を所有する理由はなんでしょうか。同じ服を着ることに飽きが生じるからでしょうか。誰かに見せびらかしたいからでしょうか。

どんなことにも理由があるはずです。別にその理由がどういうものであってもいいんです。必要なのはなぜ、なぜそれが必要か、なぜ所有しているのかに気付くこと。


DVDレンタルというのは、内容が楽しめればいいという人が利用するサービスです。媒体には興味がなく、所有することでなく中身を見る権利を一定料金で借りるのです。DVDという形にこだわらなければストリーミング再生でも映画が見られる時代です。

モノを所有しないからといって、生きている以上は何かのサービスに依存したり、街の中にあふれるあらゆるものを利用することになるでしょう。自分の中にある価値観がわかれば、きっとそれらに向き合うときにも、当たり前に利用できることの素晴らしさが実感できるはずです。

当たり前が当たり前に存在するためには、それが利用されることが条件となります。利用されなければビジネス的に提供しているサービスであればなくなります。当然です。


モノを極端に少なくしてから「贅沢」という言葉の考え方が変わった気がするのですが、贅沢とは1万円で居酒屋で美味しいものを食べることではないと思います。目の前の日常にある当たり前に感謝して、不便を感じない生活を行えるということです。

もし、日常が不便だと感じたり、何か違うなぁと感じるなら、その違和感を解消したほうが間違いなく「贅沢」な生活が遅れると思います。心が満たされている状態を維持できるのは最高の「贅沢」です。

蛇口から水が出ること、ガスコンロをつければ火がつくこと、お風呂のシャワーヘッドからすぐにお湯が出ること。そんな当たり前が当たり前でなくなったとしたら、ストレスは溜まっていくことでしょう。

モノが少なくなっていく過程で、考え方に影響を与えてあらゆる行動が変わっていく。それがミニマリストという考え方の面白いところなのかもしれません。物が少ないにはその人なりの理由があって、深くにある考え方が確実に影響します。

自分と向き合うことは本当に楽しいですね。
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