ネガティブイメージ から ミニマリスト は構築される
自分の中ではそうなだけなので、ミニマリストに辿り着くまでのそれぞれの過程を否定する気はないけども、自分の中で感じるのはミニマリストっていうのは自分の中にあるネガティブなイメージから構築されるっていうこと。
そもそも極限に物を減らそうとするミニマリストっていうのは (一般的な常識から見れば) 一種の異常な状態でありまして、執着から逃れるため、物を持っているのが嫌だ などそれっぽい理由をあげれば形がつくものではないと思うんです。そもそも、ミニマリストっていう生き方はそういう常識にとらわれない生き方を模索するものなので、ミニマリストの意見に共感できる人は、既に常識にとらわれない生き方を求めている可能性はあります。
自分の場合は、過去に自分でやろうとしていたことが本当に興味をもって好きだと思っていた対象であって、それが自分にとって必要なのか見極めるためっていうのがミニマリストを目指している目的であって、物を減らすというのはそれに近づくための過程にしかすぎない。
積み重ねてもまったく満足できないのはなぜかわからないし、満足できない自分に負のイメージを抱いていたからこそ、ミニマリストになろうと加速する。人のネガティブな感情というのは振り方によってはどのような方向にも動くすごいパワーがあるということでも思います。
物を持たない生活を目指すっていうのは、ミニマリストの本質なのかもしれないのだけどそれでシックリこないのは、元々自分が目指しているのがミニマリストではないのか、それともミニマリストが辿り着く終着点が物の少なさではなく、心理的で表すことが出来ないことなのか自分にはわからない。でも、この方向性を煮詰めていけば (現時点での) 必要・不必要は絶対にわかるはずだ。
ミニマリストは物を持たないという極限を目指すという一種の綺麗な側面ばかり目立ちがちだけど、多分その最終的局面に辿り着くまでの過程というのはあまり綺麗ではないものだと思う。常に自分の内面にある気持ちと向き合って、それが物であっても気持ちであっても向き合わなければ、その局面に近づくことは出来ない。
それが捨てるという結論になるのか、残すという結論になるのか。なぜ必要になったのか、なぜ不必要になったのか。そこから見える自分にとって楽しいこと、大事にしたいこと、これからどう過ごしたいか。
最近自分はミニマリスト、ミニマリストと書くけども自分で書いていて結構気持ち悪いと思う。というのも、ミニマリストって良い側面ばかりをピックアップするからすごく宗教っぽいのです。
その人が思う最小限の物の所有量だけではかるならミニマリストっていう考え方はそんなに難しいものではないと思うのですが、自分のように心理的な部分がミニマリストには大きく影響すると思ってる場合は、言葉だけに表現できるものではおさまらない (*ただし心理的部分を含めたものが一般的なミニマリストを指すかどうかはわからない)
ちなみに自分の最近のブログを読んで、この人はネガティブだと思われたとしたならばそれは自分の書き方が悪い。ミニマリストを目指そうとしてからはすごく毎日がポジティブで、日々が楽しすぎて驚くほど贅沢だと思うようになっている。
自分に何も負の感情を持ってない人がミニマリストを目指そうとするっていうのはミニマリストになる原動力としてはいささか弱い気がしていて「今の自分はダメだ」「どこかを変えたい」と思っているほど、実はひきこまれやすいのじゃないかと考えたり。
実際にどうかはわからないけど、ネットでミニマリストと自分で書いている人のブログを見るときは「過去に何か "強く" 自分を変えたいと思ったのではないか」という感覚を、記事を読むときに自分の中で無意識に追加して読んでしまっているのは事実で、これは一種の偏見や書き手と読み手の解釈の相違をもたらす危険性があるのではないかとも思いつつ、自分の中で注意深く観察していきたい部分なのではないかと思う。
断捨離は深くオススメするけど、ミニマリストな生き方はオススメするとかではなく自分でそうなりたいかどうかだと思う。
そもそも極限に物を減らそうとするミニマリストっていうのは (一般的な常識から見れば) 一種の異常な状態でありまして、執着から逃れるため、物を持っているのが嫌だ などそれっぽい理由をあげれば形がつくものではないと思うんです。そもそも、ミニマリストっていう生き方はそういう常識にとらわれない生き方を模索するものなので、ミニマリストの意見に共感できる人は、既に常識にとらわれない生き方を求めている可能性はあります。
自分の場合は、過去に自分でやろうとしていたことが本当に興味をもって好きだと思っていた対象であって、それが自分にとって必要なのか見極めるためっていうのがミニマリストを目指している目的であって、物を減らすというのはそれに近づくための過程にしかすぎない。
積み重ねてもまったく満足できないのはなぜかわからないし、満足できない自分に負のイメージを抱いていたからこそ、ミニマリストになろうと加速する。人のネガティブな感情というのは振り方によってはどのような方向にも動くすごいパワーがあるということでも思います。
物を持たない生活を目指すっていうのは、ミニマリストの本質なのかもしれないのだけどそれでシックリこないのは、元々自分が目指しているのがミニマリストではないのか、それともミニマリストが辿り着く終着点が物の少なさではなく、心理的で表すことが出来ないことなのか自分にはわからない。でも、この方向性を煮詰めていけば (現時点での) 必要・不必要は絶対にわかるはずだ。
ミニマリストは物を持たないという極限を目指すという一種の綺麗な側面ばかり目立ちがちだけど、多分その最終的局面に辿り着くまでの過程というのはあまり綺麗ではないものだと思う。常に自分の内面にある気持ちと向き合って、それが物であっても気持ちであっても向き合わなければ、その局面に近づくことは出来ない。
それが捨てるという結論になるのか、残すという結論になるのか。なぜ必要になったのか、なぜ不必要になったのか。そこから見える自分にとって楽しいこと、大事にしたいこと、これからどう過ごしたいか。
最近自分はミニマリスト、ミニマリストと書くけども自分で書いていて結構気持ち悪いと思う。というのも、ミニマリストって良い側面ばかりをピックアップするからすごく宗教っぽいのです。
その人が思う最小限の物の所有量だけではかるならミニマリストっていう考え方はそんなに難しいものではないと思うのですが、自分のように心理的な部分がミニマリストには大きく影響すると思ってる場合は、言葉だけに表現できるものではおさまらない (*ただし心理的部分を含めたものが一般的なミニマリストを指すかどうかはわからない)
ちなみに自分の最近のブログを読んで、この人はネガティブだと思われたとしたならばそれは自分の書き方が悪い。ミニマリストを目指そうとしてからはすごく毎日がポジティブで、日々が楽しすぎて驚くほど贅沢だと思うようになっている。
自分に何も負の感情を持ってない人がミニマリストを目指そうとするっていうのはミニマリストになる原動力としてはいささか弱い気がしていて「今の自分はダメだ」「どこかを変えたい」と思っているほど、実はひきこまれやすいのじゃないかと考えたり。
実際にどうかはわからないけど、ネットでミニマリストと自分で書いている人のブログを見るときは「過去に何か "強く" 自分を変えたいと思ったのではないか」という感覚を、記事を読むときに自分の中で無意識に追加して読んでしまっているのは事実で、これは一種の偏見や書き手と読み手の解釈の相違をもたらす危険性があるのではないかとも思いつつ、自分の中で注意深く観察していきたい部分なのではないかと思う。
断捨離は深くオススメするけど、ミニマリストな生き方はオススメするとかではなく自分でそうなりたいかどうかだと思う。
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