質素 と 贅沢

質素で満足できることが、最大の贅沢なのではないか。そう考えるようになったのはここ数年のことではないでしょうか。

徐々に生活を変えてきて、あと変えられるとすれば食事の部分というところまできました。このブログ読者の方はご存知の通り、自分の生活のほとんどは食で構成されています。

そのメインを大きく変えるにはどうしたら良いのか。メインを簡単には楽しめない環境に自分を置くことです。もちろん、デメリットを上回るメリットを考えつつ、今の環境を変えられるところに引っ越してみる。それが、一番手っ取り早い実験方法となると思います。

気になったことは後回しにせずやってみたい それは昔っから今まで何にも変わっていません。

見栄を張ること、自分はなんでも出来ると自慢すること、モノに囲まれて自分はスゴいと錯覚すること。自分はそのような欲から遠ざかりたいと思っています。自分より何かができる人はたくさん存在しますから、比較することから脱却出来ると、生きることが楽になると思うんです。

遠ざかるためには、制約で行動が制限されることを避けなければいけません。いつでも動けるように。それは時間的にも、金銭的にもです。

自分はアーリーリタイアには興味がありませんし、必要以上にお金を稼ぐことにも興味もありません。働くことへの疑問からの節制ではなく、単純に消費し続けることが当たり前という構造が気になるのです。

死ぬまでに必要なものって何なのでしょうか。考えたことがありますか?

そんな最小限の生活をして何が楽しいんだ、もっと贅沢がしたいというのは当たり前の感情かもしれませんが、では贅沢とはなんでしょうか?

1万円のお肉が食べられることが贅沢だとしてそれを365日続けたらどうなるんだろう。大きな家に住むのが贅沢だとして、そこに何十年も縛られるのが贅沢なのだろうか。

贅沢とは、自分が満足できないことについて羨ましがる気持ちと繋がっている部分があるんじゃないかと思うんです。その水準を高くすればするほど、今ある現実に満足できないことが増える気がします。

最小限がわかると、その上にあるものはすべてが贅沢です。その見逃しがちなところを当たり前だと思わずに満足できるようになったとすれば、その変化こそが素晴らしいことではないでしょうか。

結局何を選択しても、それで満足できるかどうかは自分の心の持ち方だということ。あれもこれも欲しがって、何にも満足できないとシアワセではないのでは。

こうでなければいけない というのは、周りが決めつけたのか、自分が思い込んでるのかはわかりませんが良いことはありませんよね。常に柔軟に、あらゆる可能性を残しながら、その都度答えの最適を考えていく。


自由って言葉で表現できるのかはわかりませんが、自分の理想の生活の先にあるのは、自由に近いものなんでしょうねきっと。

派手ではない生活の先に見えるもの、自分は気になります。

自分はあらゆるものを辞めて、例えば空いた時間で何かがやりたいというわけじゃないんですよ。空いた時間があれば、何でもできる、その時間がほしい。何もやらなくてもいい時間っていうのは、何にでも使うことができる。

時間が余ったときに、それを埋めなきゃと思うほど余裕のない生活はしたくないんです。
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