かっこつけて断言しない

断言する文章は見ている側が安心するような気がする。

言い切られると、きっとそうなのだろうという、どこからきたかもわからない安心感というのがそこに生まれる。その言葉を発した人が自分の尊敬している人、興味ある人ならそういう補正もかかることでしょう。

「断言する」ことを常に行っているのにかかわらず、その発言に一貫性がない人は信用されない。その発言を間違いないと言ったのに、なぜころころ中身が変わってしまうのか。多分、その人の中で「断言すること」が責任を伴うことについての自覚が足りないのだろう。あとで訂正すれば問題ないと思っているのかもしれない。

過去の自分も「断言すること」について意識が甘かったときがあった。自分自身の感情を説明することと、事実を説明することがごっちゃごちゃになっていて、自分の思うことは正しいみたいな感覚が強く表に出ていたのかもしれません。

自分自身の感情を説明するときには、そこに正しいという意識があったとしても、それは100%正しいとは言えないと思います。事実をただ伝えるのには正しさは関係なくて、見たまま感じたままを余計な言葉をつけずに淡々と伝えればいい。

自分はこう思うを主張することと、それが正しいかどうかは本来別問題であって、そもそも正しいというのが何を指すのかはわからないけれども、自分の存在価値を高めるために、「正しい」と「認められる」という感情を結びつける行動なのかも。

知らないことにはハッキリ知りませんと言える意志を持った上で、知らないことがその状況において恥ずかしいことだったら、しっかり知識をつけたいですよね。知らないことを知ったふりして生きるのは何にも良いことがありません。

憶測から事実を予測するには、その憶測から断定できるだけの情報量が必要になってくる。回数を重ねる、様々な角度から見てみる、情報を総合して考える。それをなくして、一面だけから見た情報をそうであると断言はできないはず。

多種多様な見方があることを潰さないように、偏った断言はしないようにしたいものです。
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