日常の当たり前を大切に

イベントの時だけ街が盛り上がったような感じがして、日常生活の中には何もないような気がする感覚っておかしいと思うんです。

その当たり前の生活があるから街は成り立っていて、今の姿を保っていて存在する。その日常生活が大切にされなかったら、まわりにまわってイベントなんかも消えてしまうと思うんですよね。


自分は断捨離してミニマリストになってから思うようになったのだけど、なぜそこまでやりたいことがなきゃいけないのだろう、やりたいことを増やさなきゃいけないのだろう、欲しいものが多いんだろうと。

日々に不満があるなら変えればいい。時間がないなら作ればいい。やりたいことがあるならやりたくないことを辞めればいい。欲しいものがあるなら欲しくないものを買わなきゃいい。なにもないと思うなら、本当になにもないか考えてみればいい。

いかに当たり前のシアワセを見過ごしているかわかるはずだ。


普段やらないような特別なことにはインパクトがある。ただ、特別なことに焦点を合わせて、平穏な普段の暮らしをなかったことにすると、たちまち成立しなくなる。

メディアに取り上げられることの条件は「インパクトがあること」である。インパクトがなければ取り上げられないし、取り上げられたとしても拡散されない。インパクトのあることで、容易に真似出来そうなものは形だけコピーして地元に取り入れられる。

でも、日常生活がどう行われているかを把握しないで、イベントをコピーしても意味が無い。同じ血だからといって、A型の人の血をB型に輸血するようなものです。そのイベントがその地区に合うかどうかは、もっと深いところをみないとわからないのに、上辺だけコピーしても成立しないのです。


目の前のことに「ありがとう」 最近自分はこれを意識しているけども、当たり前だからこそ感謝の気持ちを忘れがちになってしまう。それが成立しているのは、いかにも当たり前に見えるけど、そもそも当たり前が当たり前としてある保証はどこにもない。ふと、それが明日無くなってしまう可能性だってある。

別になくなってもいいと思ってるならそれでいいんです。メリットとデメリットを考えてメリットが上回ったらその人の中でその選択は間違ってないのだから。自然と自分の目の前から消えゆく運命なのかもしれない。

でもね、少しでもそれを大事にしたいと思ったならば感謝の気持ちは大事にしたほうがいいね。相手のご機嫌を取るっていう意味じゃない。素直に自分の心の声を届けるってだけ。

形作ったハリボテの感情ではなく、素の気持ちを伝えることって、小さな変化から大きな変化になるような気がするんですよね。素の気持ちを伝えるためには、心の余裕が必要不可欠。

なにもないと思うなら、本当になにもないか考えてみれるだけの余裕を作るところからかな、田舎を再発見するっていうのは。


(オチがない記事ですいません)
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